「夕涼みですか」

夏の薄暮。
ぬるい風の吹き込む屯所の縁側に座り込んでいた土方に、美しい声がそう尋ねた。
部屋から持ち出してきた書類に目を通していた彼は、咥え煙草をしていた顔をくいと上げて、声を掛けて来た人を見た。
小さな風呂敷包みを抱えた楚々とした美女がいた。真選組の女中として働くだった。
普段はたすきがけして働く彼女の着物の袖が落ちているのを見て、帰るところか、と土方は思う。

「いや、休憩だ」

そう言う土方の手にはしっかと書類が握られており、到底休憩中には見えなかったが、仕事の鬼である彼にとっては部屋を出て夜風にあたりながら書類を読むことも休憩にあたるのだろうと、は疑問を呈さなかった。
その代わり、「お茶をお淹れしますか」とやんわりとたずねる。

「いい。お前も就業時間だろ。暗くなる前に早く帰れ」

「お茶を淹れるくらい、何の手間にもなりません。ちょっとお待ち下さいね」

「あー、じゃあよ」踵を返そうとしたを土方は引き止めた。

「俺の部屋から灰皿取って来てくんねェか」

そう言う彼の持っている煙草からは、灰が落ちかけている。
書類に目を通すことに頭がいっぱいで、部屋を出るときに灰皿を持ち出すことを失念していたのだ。
今にも落っこちそうな灰を視認して「まあ」と目を丸くすると、は急ぎ足でさほど遠くない土方の部屋に向かい、数分もたたずに何本もの吸殻が突っ込まれているステンレスの灰皿を手に戻ってきた。
沈みかけた日にあたり、擦れた銀色の側面が鈍く光っている。

「悪ィな」

「いいえ」

両膝をついて土方の傍らに灰皿を置いたは、何となく立ち上がるタイミングを逃し、土方が慣れた手つきで灰を落とすのを見守った。土方も何となく、「じゃあな」とも言えず、灰を落とした煙草をくわえ直した。
昼間の熱をわずかにはらんだ風が、また吹き込んだ。紫煙がゆらりと風に揺れたのを、二日ほど徹夜を続けた重い目で見送った。

「お疲れの様子ですね」

「そうか?…だが、それも明日で終わる」

ここ最近で過激化しつつあった攘夷浪士集団のアジトを突き止めたのが、2週間前。
土方は山崎をはじめ監察方をこき使い、より詳しい内情を調べさせた。
鬼の扱きに本気でヒイヒイ言いながらも必死に働いた彼らは、それに見合った上等の情報を持ち帰ってきた。それが一昨日。
それから今日まで2日間、土方たちは文字通り寝ずに準備を整えてきた。

そしていよいよ明日は、正念場だ。久々の大規模な御用改めである。

ここ数日は屯所内も来る日に備えて非常に張り詰めており、否が応でもこの仕事が死と隣り合わせであることを男たちに改めて意識させていた。
休憩といいつつ土方が部屋から持ち出した書類も、翌日に控えた仕事に関するものだった。
真選組のブレーンである土方が一つでも作戦を違えれば、それだけ生存率は下がる。土方に失敗は許されなかった。

「いつも通り、留守を頼む」

女中であるに詳しい作戦はもちろん伏せられるが、大きな仕事がある際は留守中屯所を預けることもあって、有事の時の対応の仕方等も含め、必要最低限の情報を伝えている。


「心得ましてございます。土方さんも、ご武運を」


は美しい所作で頭を下げた。そのやり取りに(なんか夫婦みt…)と思いかけ、ゴホーーン!と大きく咳払いした。土方の思いなど露知らず、「まあやっぱりお茶を」と慌てて立とうとしたの手首を気まずさから引いて、目が合った。

その時、はじめてが、泣きそうな顔をしているのを知った。
が、白魚のような手を土方の武骨な手の上からそえた。


「どうかご無事でお戻り下さい」


硬い声だった。
の手の氷のような冷たさが、見送る者の恐怖を土方に知らしめた。

白魚のように美しいと思えるの手には、よく見ると普段の炊事洗濯による小さな切り傷やあかぎれがある事に気付く。男たちの食事を作り、汚れた着物を洗い、仕事を終えた仲間たちが気持ちよく部屋で過ごせるよう、隅々まで掃除をほどこしている手。
土方たちが無事に戻るよう、いつも切に祈っている手だった。

誰かを失うかもしれない恐ろしさを抱えながら、この手で、彼女は彼女なりの武器を持って、土方を、真選組の男たちを守っている。


「約束はできねェ」


の瞳が揺れる。心配するなと言ってやりたくなる。
だが、それがいつだって真実だった。

「俺や隊士の命は、真選組の、ひいては近藤さんの為にある。あの人が危険に晒されれば、少なくとも俺はいくらだって盾になる」

土方の優先順位の上に立つのは、じゃなかった。

「…覚悟しております」

「嘘吐け」

気丈な声に反して薄っすら涙の膜がはったの目を見て、意地悪を言いたくなった。
案の定は恨みがましそうに土方を見つめる。

「本当は?」

ずるい言い方だった。
でもの心を聞けるのは自分でありたかった。


「ほんとは、こわくてこわくて、たまらない」


それでいい。土方は冷えたの手を引き寄せて、腕に閉じ込める。
の額が土方の肩におさまる。定位置だった。

昔、添い遂げたいと思った女がいた。だが、土方は刀を握ることを選び、命を一人の男に捧げることに決めた。
いつか土方を失うかもしれない覚悟をさせてまで土方は「一緒に生きてくれ」という言葉を口にすることが出来なかった。だから置いてきた。
しあわせに生きて欲しかった。今でも願う。

だが、は違った。
例え彼女がいつか不幸になる日が来ても、土方の傍でいつも笑って欲しかった。土方を思って泣いて欲しかった。
自分が此処まで独占欲が強い男であったことに、に出会って初めて気付いた土方は驚いた。
それでも求めてやまなかった。死んでも離したくない女だと思った。

「俺の命は、近藤さんのもんだ」

「はい」

「俺の心は、お前のもんだ」

「…はい」

「俺が死んでも、心はお前のところに帰る」

「ぎゅうと抱きしめて、お帰りといいます」

「…」

あまりの可愛さに、顔の見えないのつむじに唇を落とす。
どんなかたちになっても、お前の元へ帰るから。



不幸にさせたい人







「…もしもの時は、近藤さんを頼む」

「お任せ下さい」

腕の中で小さくが鼻をすする。
真選組女中としての矜持があるのか、土方の肩から額を離し、涙で濡れた、しかし意志の強さをうかがえる目で土方をキリッ!と見つめた。正直言ってそそる。

「でも、生きて帰ることを最後まで諦めないでくださいね。もし諦めたら…」

「諦めたら?」


「…こ、近藤さんと結婚しちゃいます」


絶対生きて帰る。

おわり